2015年1月11日日曜日

葬送と音楽(2、Vivace寄稿のエッセイより)


前回の続きです。
葬送音楽についてのエッセイ。
 
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 前回、冒頭に書いたベートーヴェンの葬儀で演奏された音楽「エクアーレ」とは、トロンボーンによる教会で演奏される音楽の一形式であり古き時代に葬送のときに演奏されたが、この「4本の~」はベートーヴェンが生前に別件で依属されて書いた曲である。このように “死”をテーマにした曲は葬儀の時に演奏されたり、死後に故人を偲び演奏されたりすることが多い。最も分かりやすい形式は「レクイエム」というミサ曲の一つで鎮魂ミサ曲ともいい死者の冥福を祈る曲がある。
 モーツァルトやフォーレの作曲したものが名高いが、現代の作曲家もレクイエムを作曲しており、邦人の作曲家では合唱もなく形式も自由な武満徹の「弦楽の為のレクイエム」がある。一方、形式的には死とは関係ないが作曲の背景や題材から追悼音楽として演奏されるものもあるが、先日の東日本大震災のあとベルリンフィルが追悼演奏としてルトワフスキ作曲「葬送音楽」を演奏したことは記憶に新しい。また奇しくも我々の演奏会の前日の八月六日は広島に原爆が投下された日であるが、ペンデレツキが「広島の犠牲者に捧げる哀歌」を作曲している。戦争や災害といった悲しい重大事件があると音楽家は曲を通じて世に対して何かをしたいという衝動に駆られるのであろう。

 これらのように“ある重大事件”を受けて作曲された鎮魂曲以外にも死をテーマにした曲もある。
 シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」は、同名の歌曲の冒頭のピアノのモチーフを二楽章に使ったことによりタイトルが付けられたが、その元となった歌詞の内容は、病に伏し死を恐れる乙女が死神に去ってくれと懇願するが死神は安息を与えるために来たのだと優しく問いかける、といった意味で死を苦痛ではなく「永遠なる安息」としてポジティブなものとして扱ったものだ。
 また、ドヴォルジャークが書いた弦楽四重奏曲「糸杉」はドヴォルジャーク自身の作曲した歌曲「糸杉」からの抜粋であるが、糸杉とは西洋ヒノキで、キリストが貼り付けられた十字架の材料という説もありその昔は棺に使われ、死や哀悼を暗示する。タイトルからすると重苦しく神聖なイメージをしてしまうが、しかし実際のドヴォルジャークが作曲した背景は、実らなかった初恋の想いによるもので、しかも結局はその失恋した娘の妹と結婚するというオチまで付いてくる。ここまでくるとだいぶ軽い内容になってきてしまったが、西洋の死に対するイメージは日本のそれよりは前向きで明るいのは確かなようである。

<後略(演奏会尾>

2015年1月4日日曜日

葬送と音楽(1、Vivace寄稿のエッセイより)

何から掲載していこうかと悩みましたが、
最初から音響の分析や、楽曲の理論というのも小難しい印象なので・・自分が団長を務めている弦楽合奏団の演奏会に絡んだネタをいくつか掲載することにしました。

Vivaceというホールとか駅に置いているらしい音楽の広報誌があるのですが、そこで以前に幾つか寄稿した中から、まずは分かりやすい話題をご提供します。

今回は「死と音楽」というタイトルで書いた短い音楽エッセイからです。
ずいぶんとまた「死」なんていう重たい内容で・・・と思われるかもしれませんが、
まったく暗い話ではないです!
以前に、その弦楽合奏団のコンサートでシューベルトの死と乙女の弦楽合奏版を
演奏する機会がありまして、その関連で書いたものです。

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「人の死と音楽」(2012年11月)

 1827329日の午後、ウィーンの2万人もの群衆に囲まれる中、楽聖“ベートーヴェン”の棺は三位一体教会(アルザー教会)へ運ばれた。死床の館からわずか150メートルの教会への距離を移動するのに1時間半もかかったといわれる。
 葬列には先頭の十字架に続き、4人のトロンボーン奏者と16人の男性歌手による「4本のトロンボーンのためのエクアーレ」の荘厳な演奏がなされ、多くの音楽家や作家、俳優なども参列しその中にはシューベルトやチェルニー、ヒュッテンブレンナーなどもいた。
 シューベルトとベートーヴェンは生前にもわずかに交流があり、青年シューベルトはベートーヴェンをたいへん尊敬していた。そんなシューベルトは葬儀の後、友人達と酒を酌み交わし偉大なる巨匠に乾杯をしたあと、“そして我々のなかで最初にベートーヴェンに続く者に乾杯!”と不吉なことを言い放ったといわれている。
 結局、シューベルトは翌年に腸チフスのために31歳でこの世を去り、ヴェーリング墓地にて敬愛なるベートーヴェンの隣で眠ることになる。

 そして、その約10年後。
 ウィーンに眠る二人の巨匠の墓前を目の当たりにして感嘆にくれる一人の青年がいた。
彼の名はロベルト・シューマン。ピアノ曲「子供の情景」や「クライスレリアーナ」、交響曲第3番「ライン」などを書いたロマン派の主要作曲家であり音楽評論家である。
 彼はその時シューベルトの墓標に花が一つも手向けられてなかったと著書“音楽と音楽家”で記している。
 まだその当時シューベルトについてはモーツァルトやベートーヴェンに比べ認知度が低かったのか。しかし、シューマンはシューベルトを最高級の天才に属するとその著書で紹介しており、さらには尊敬する作曲家が生きていた名残に触れたいという想いに駆られ、シューベルトの兄フェルディナンドなどを訪ね、故人の話を聞き喜んだといわれている。
 シューマンがフェルディナンド宅でハ長調大交響曲を発見したというドラマチックな説もあるが、ウィーン楽友協会資料室長フランツ・グレッグルが資料室に眠っていたスコアをシューマンにプレゼントしたというのが最近の説である。いずれにせよシューマンの功績により今日我々はあの大交響曲を聴くことができるようになったのであるから素晴らしい。

 以上のくだりは、音楽史に残る二人の天才の死にまつわるとあるエピソードであるが、偉大なる作曲家の死の後にはその功績に畏敬の念をもちその影響を受けて己の芸術を開花させる天才がまた続くという、この連鎖で今日までのクラシック音楽家の系譜が脈々と続いていることを指している。

~ つづく。

2015年1月2日金曜日

オープンしました!

音楽と楽器をテーマにした記事を書いていくブログを立ち上げました!

堅苦しく言えば、
私の研究分野の音楽情報・楽器音響・作曲編曲etcについて勝手気ままな内容なのですが・・・

でも、わかりやすく解説した記事を載せるようにがんばります。